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廃墟探訪:小串鉱山跡(その2)
『小串鉱山跡』の2回目。
昭和16年(1941)、太平洋戦争が勃発。 戦時中は戦争資材の補強のため、 鉱山施設の鉄類を供出させられながらも操業を続け、 昭和20年(1945)、終戦を迎えます。 戦後は硫黄の用途がパルプ・化学繊維などの分野に広がり、 さらに朝鮮戦争による特需景気で、 硫黄ブームに湧きます。 昭和30年(1955)から始まる高度経済成長期では、 化繊・パルプ・農薬等の需要が急増。 硫黄の需要に供給が追い付かず、 アメリカから価格の安い硫黄を輸入されるようになります。 昭和33年(1958)には一転して生産過剰となり、 小串鉱業所も人員整理を行なう結果となりました。 昭和34年(1959)には県道-万座線から分岐して、 小串鉱山までの車道8kmが開通。 昭和37年(1962)12月31日の 小串鉱山に在籍する子供から大人までの総人数は、 1,517名を数えました。 昭和38年(1963)になると、 コストの安い回収硫黄の影響を受け、 硫黄価格が下落。 国内の硫黄鉱山が22から15に整理されます。 昭和40年(1965)、 村立小串幼稚園が新築開園、園児84名。 このとき、 1,300名が生活をしていました。 昭和41年(1966)、 全国規模で石化燃料の回収硫黄が増産。 昭和43年(1968)には鉱山の経営が困難となります。 その後、 コストの安い回収硫黄に移行し、 昭和46年(1971)には硫黄の販売が停止され、 42年間の事業を終えて閉山。 ついに「ヤマ」の灯は消えました。 まだまだ、続きます。 探訪日:2013.05.25
by j-garden-hirasato
| 2013-06-13 06:46
| 廃墟
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Comments(18)
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N-styel at 2013-06-13 07:12
40年余りでこの姿ですか…
かつて人々が暮らし、生活していたとは思えませんね…。 何だか時間が止まってしまったよう。 放り出された場所は、こんな風景なんだァ~ ちょっと複雑です。(/_;)
0
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voyagers-x at 2013-06-13 09:00
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risaya-827a at 2013-06-13 10:37
おはようございます^^
そこに立って見る遠景は素晴らしいと思いますが 足下には荒廃した風景が広がっているのですね!!! いろんな人々の”想い”が残されたと思いますが 今は誰も見向きもしない。。。 こうして訪れて、その後を見るのも意義がありますね^^
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gipsypapa at 2013-06-13 13:23
廃墟系も興味があります。
残骸の残り方が中途半端? もっと残せば観光資源になりそうですし、 そのつもりがないなら 完全に撤去して 植樹するとかを考えそうですが・・・ まあ誰も手をつけないでしょうね。(笑)
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London Caller
at 2013-06-13 19:30
x
ものの利用価値はなければ、結局はこんなようになりましたね。
ほんとうの悲劇なんですね。
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ninja2005y at 2013-06-13 22:32
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雪だるま
at 2013-06-14 06:04
x
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j-garden-hirasato at 2013-06-14 06:19
Naoさん、コメントありがとうございます。
町が放棄されたとき、 どの程度の状態だったかは分かりませんが、 山奥ということもあり、 人の行き来もほとんどない状態で、 自然に任せておくと、 こういう荒涼とした風景になってしまうんでしょうね。
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j-garden-hirasato at 2013-06-14 06:22
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j-garden-hirasato at 2013-06-14 06:27
risayaさん、コメントありがとうございます。
遠くに見えているのは浅間山で、 噴煙が上がっているのも見えました。 この鉱山跡のみ荒涼としていて、 周りには自然の樹林が広がっています。 実に不思議な空間です。
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j-garden-hirasato at 2013-06-14 06:34
gipsypapaさん、コメントありがとうございます。
アプローチがあまりにも厳しく、 観光資源にはならないでしょうね。 せいぜい、 廃墟マニアが訪れるくらいでしょう。 このときも、 若者3人組とバイク2組と合ったくらいです。 カラマツの植樹も部分的に行われていましたが、 成長が悪く、 とても緑の大地と呼べる状況ではありませんでした。 こんな砂質の強い土壌では、 樹木も育たないでしょう。
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j-garden-hirasato at 2013-06-14 06:38
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j-garden-hirasato at 2013-06-14 06:44
ninjaさん、コメントありがとうございます。
全国各地のシャッター商店街も、 同じような経緯を歩むのでしょうか…。 それより、 高度成長期に開発した多摩ニュータウンとかの方が 深刻な状況でしょうか。
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j-garden-hirasato at 2013-06-14 06:49
雪だるまさん、コメントありがとうございます。
ネットで調べて、 写真や絵を見ましたが、 確かに町は存在していました。 今、この地に立つと、 生活物資はどうしていたのか、 冬はどうだったのか、 いろいろ気になることばかりでした。 現代人の自分には、 とても想像が付きません。
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yaguchitenga at 2013-06-14 07:11
この辺りは余程気候が厳しくて森林限界の上になるのかと思いましたが、どうやら硫黄の影響でろくに樹木が生長しなかったようです。これは、草津から白根山へ至るルートでもみられ、少し離れると立派な森林が山を覆っています。
山深い集落で見られる廃村の姿と同様、長年暮らしてきた場所を見捨てるときに、判断から実行までの経過は急激なのでしょう。 そのために、どうしても消し残しの生活の跡のようなものが残されます。 それは実に饒舌で、今世紀を代表する住宅空間なのかもしれないとまで思います。
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j-garden-hirasato at 2013-06-17 05:36
yaguchitengaさん、コメントありがとうございます。
今でこそ、こんな荒野となっていますが、 往時には1500人もの人々が生活していたようです。 しかも、こんな雪深い山奥に…。 高度成長期に町もなくなってしまったというのも、 何とも…。
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j-garden-hirasato at 2013-06-17 05:45
kikouchiさん、コメントありがとうございます。
この辺りは、 白根山という活火山があるおかげで、 荒涼とした独特な風景が広がっています。 この鉱山で生活していた人は、 長野県側の高山村に集団移転したようです。 もともと硫黄採掘を目的としてできた町だったので、 その硫黄がダメになれば、 他に移るしかない。 土地自体への執着とかは少なかったので、 決断は早かったのではないでしょうか。
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